カービーからの手紙 (GO NAMINORI サーフィンガイド)

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Aloha from Hawai'i

アロハ。カービーです

みなさん、こんにちは。
私の名前はカービー福永です。

ハワイで生まれ育って、25年間サーフィンをやっています。初めて日本に行ったのは1990年のことで、その年の世界戦にハワイチームを代表して出場するためでした。日系4世として、自分の曽祖父がいた土地を見るのはすばらしい体験でした。その初の日本トリップで、私は日本に住みたいと思うようになったのです。そのとき私はハワイ大学でビジネスを専攻していたのですが、私はできる限り早く卒業しようと努力し、2年後には自分の車を売って、身の回りのものを処分して、部屋を友人に貸してハワイを出たのです。それも日本でサラリーマンになる夢を抱いて。私が日本に持って来たのは、レジュメ(履歴書)、ビジネススーツとサーフボードだけ。そして一番使ったものはサーフボードでした。実は、一度も就職活動もしなかったし、持って来たスーツに腕を通すことすらありませんでした。こうして私のサーフィンキャリアはスタートしたのです。

誰も入っていないような波が小さくてジャンクなある日、私は河口のポイント(花水)でサーフィンしていました。海にはもうひとりサーファーがいて、それがダブウェットスーツのオーナー、戸倉さんでした。私たちは話しを始めて意気投合しました。当時私は日本語が話せず、戸倉さんも英語が話せませんでしたが、どういうわけかコミュニケーションができたのです。ちょうど台風が来ていて戸倉さんの誘いで静岡へ行き1週間パーフェクトな波でサーフィンをしました。これがきっかけで戸倉さんは私をスポンサーしてくれることになり、そこから私の人生は変わりました。お金も仕事もなかった自分に彼は日本でプロサーファーになるべきだと言ってくれ、いつも私をサポートしてくれました。当時は外国人が日本のプロになるのはほとんど不可能な時代だったのですが、結局私はそれから半年以内にJPSAのプロになれたのです。

Kirby surfing戸倉さんはいつも私をケアしてくれ、彼のおかげで楽しい人生を送る事ができました。彼は私の恩師であり、ボスであり、一番重要な事は友達でもあると言う事です。彼と出会ったことをとてもうれしく、幸運だったと思っています。私が最初に日本に来た時は、ただのクレージーな外人でしたが、彼がビジネスについて、そしていいイメージを持つことについて教えてくれました。もしあの日花水で彼に出会っていなかったら、今自分のまわりにいてくれている友人もいなかっただろうし、バカでクレージーな外人のままだったと思います。いや、それ以上に東京で普通のサラリーマンになってたかもしれません。

JPSAで2年間ヒザ波でのサーフィンを続けた結果、私はそこから抜け出したくなりました。ラッキーなことに、私のスポンサーはフリーサーファーとして生きることを認めてくれ、サポートしてくれました。その時から、私は旅を続け、世界を見て回っています。バリ、メンタワイ、ニューカレドニア、オーストラリア、タヒチ、サモア、フィジー、トンガ、ミクロネシア、台湾、韓国、モルディブ、シンガポール、マレーシア、フィリピン、南アフリカ、そして日本全国をトリップしてきました。これらの国を旅してきて、人生について多くのことを教えられました。一番感じた事は、物事すべてを当たり前として思わないこと、自分が持っているものに感謝するべきだということです。でも、何と言っても、旅をしていく中で最高なことは、人に出会うこと、そして友達になることだと思います。旅で出会ったすてきな人たちはたくさんいますし、今でもその多くが私の友達、いや、自分にとっては家族みたいなものです。

これからもサーフインガイドを通して、ハワイを訪れたたくさんの皆さんと友達になることを楽しみにしています。

アロハ

カービー・福永

 

■初出:2007年5月

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